アドラー臭が充満する車内

車内での雑談は相変わらず筋トレに行く道中で行われている。この日は冒頭から音声トラブルの話題だった。

音が割れてしまい、編集時に使えない部分が出てくる原因について、私と竹内(@rikson_en)は首をひねった。どうやら録音環境やマイクのレベル調整が難しいらしく、プロの現場でも悩ましい問題らしい。何がベストなのか、未だにはっきりしない。ただ車を止めているときは問題が出ないなど、奇妙な条件つきなのだから、余計に頭を抱えてしまう。

話題はいつしかブログへと移った。私は先日、重い腰をあげてブログ移行を「エイヤ」とやってしまったところだ。細かい調整を気にしていては公開のタイミングが見つからないし、読者数を考えれば多少の粗さは許されるだろう。

竹内がブログを細かく弄っている話は興味深い。モーダル検索やCSSによる背景のブラー演出、マイナーなアニメーションの洗練、そうした工夫は確かに誰もが気づくものではない。それでもプログラマーの性分なのか、手段が目的化して細部をこだわってしまう気持ちはわかる。このこだわりは、いつか誰かの目に留まるのだろうか。少なくとも、自分自身が楽しんでいるなら、それも価値のある時間なのかもしれない。

かつて職場で竹内が、私のことを「アドラー臭がする」と言ったことをふと思い出した。

一時期話題になったアドラー心理学の「嫌われる勇気」。あの本はもてはやされたが、今思えば自己啓発の域を出なかったようにも思う。因果関係を単純に切り捨て、運命論を否定するその思想は、確かに身軽な生き方を示唆しているようだ。しかし、目的論的な視点が解釈の幅を広げすぎるあまり、具体性を欠き、どこか宗教や占いのような「ああも言えるしこうも言える」曖昧さを感じさせた。

私自身、かつて哲学書やスピリチュアル書籍を漁り、自分なりの理屈を組み立てていた時期がある。生きる気力がない人に、かつて熱中していたネトゲで疑似的な達成感を味わうことを勧めたこともあるが、それもまた一つの対処法に過ぎない。アドラー心理学であれ引きこもり時代の習慣であれ、人が楽に生きる術は無数にあり、それが正しいかどうかは誰にも決められないのだろう。

音割れ問題に頭を悩ませ、ブログの小さなエフェクトに心躍らせ、心理学と自己啓発の境目で立ち止まり、ネトゲでの仮初の充実を肯定したり否定したりする。この一連の雑多な話題は、どれもとりとめがないように見えるが、私たちが日々考え、行動し、迷い、工夫している証でもある。

車はジムへと向かい、雑談は終わったが、耳に残る微妙な音や、ブログでこっそり追加したエフェクトの動き、そして「今ここ」の意味を問う思考。それらはすべて、生きる営みの断片だ。正解も誤りもない中で、踏ん張る筋トレの時が近づいている。ただ、もう少し、このまま進んでみよう。

ジムへと向かい、雑談は終わったが、耳に残る微妙な音や、ブログでこっそり追加した小さな動き、そしてアドラー風に「今ここ」の意味を問いかける思考。それらは生きる営みの断片であり、どれが正解でも誤りでもないのだろう。気がつけば、いつものように踏ん張る筋トレの時が近づいている。もう少しこのまま進んでみよう。