【読書】煩悩の使い方 煩悩の教科書

「煩悩の教科書」を読んだ。

内容は、荒良寛先生と苫米地先生の対談形式で煩悩を上手く扱う方法と唯識論の概要が書かれている。

私も皆と同じく煩悩多い身であり、それをどうにかしたいと思い読んだ。

当然、本を読んだだけではどうにもならないが、本書は煩悩がどのようなものなのか、煩悩があるためどのようなことが起こるのかを唯識論をベースに解説している。

物事を上手く使うには、やはり、それについて詳しく知る必要がある。

筋肉を上手く使うには、唯々闇雲にトレーニングに励めば良いわけではなく、使う筋肉について詳しく知る必要があるように、煩悩についてしっかり学習すれば、程度の差はあれど、使いこなせるようになるのではないだろうか。

そのための入門書としては最適だと思う。

唯識論について

唯識とは、インドで生まれた仏教の思想の事を言う。唯識論では、私たちが見ている世界は心が見せている幻で実態はなく、その心すら実態は存在しないものとして捉える。

つまり、世界は、人間の認識作用(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触角)と、それから生まれる心で構成されると唯識論では言われている。

これは、現代の脳科学でも同様で、私たちが見ている世界は、物理世界と五感と記憶を基に脳が作り出した世界であり、一種の仮想世界だ。

さらに、唯識では、人は「阿頼耶識」という領域を持ち、その中には、今まで生きてきた経験が全て格納されているそうだ。つまり、一度読んだだけで全く覚えてない本の内容も一字一句格納されていることになる。

ただ、何故それを自由に利用できないかというと、阿頼耶識には「末那識」という蓋のような存在があり、それが邪魔して、取り出せないのだそうだ。

この蓋である「末那識」こそが我々の煩悩であり、自我であると唯識では言われている。

つまり、この末那識を上手く使うことで、格納された経験を取り出すことができる。そして煩悩とは、結局のところ「言語」から来ている。なぜなら人は言語を用いて思考し、その思考から煩悩が出来上がるからだ。つまり、我々は煩悩という言語束縛を持っているのである。そして、この言語束縛を解くことで、阿頼耶識にアクセスすることができる。

言語束縛を解く方法は、瞑想で左脳優位を右脳優位へもっていくのだが、これは難しい。ある程度はできるようになるが、完全には阿頼耶識へアクセスできるようになるにはブッダになる必要があるだろう。

煩悩の扱い方

煩悩を消すことはできない、ただできるのは上手く扱うだけだ。

結局のところ、煩悩もツールの一種だと思う。煩悩があるからこそ、我々の内に煩悩があるからこそ、他者の煩悩を理解することができ、すなわち、他人を理解することができるのである。

本書では、煩悩の方向を、自分だけのことではなく、他人や社会へ向けることで、苦しむことはなくなると書かれてている。

例えば、自分だけじゃなく他人や社会を幸せにしたい等の煩悩を持つのが良く、さらにその煩悩は大きければ大きいほどよく、そうすれば、苦しむことはなくなり、ハッピーになるとのこと。

まずは、そういった自分も幸せになる、他人や社会も幸せになる野望というかゴールを作って見るのが良いだろう。